Spells and Charms

プログラミング(呪文学)の学習記録。

隣の工事の人がかけてるラジオ音量がすごすぎてキツイという話から派生して匿名ダイアリーの耳栓話からの会田誠訴えられるの件からの義務教育でディベートの授業を必須にしたらいいのにという話

こんにちはあほちゃうよです。

自分があほちゃうよっていいたいわけじゃなく、
吉本新喜劇の内場勝則さんのギャグです。ただそれが好きなんで拝借しています。

一応人間なんで、できれば阿呆よりはかしこを目指したいかな、という感じ。でも阿呆になることもかしこの一部だと思います。

なんの話や。

 

 

で、あほちゃうよはいまカナダに住んでいるのですが、
隣がめっちゃ工事をしていて、ものすごくうるさいんですね。
薄い壁一枚。

ほんとに薄いです。話し声とかぜんぶはっきりくっきり聞こえます。

 

工事の音はまあいいんです。
うるさいけど仕方がないし我慢できる。

 

ただ辛すぎるのが、奴がラジオを爆音で7時間再生することなんですね。
昼の12時から夜7時まで。

 

時間帯からみれば文句言える時間帯じゃない。
外で働いていないときは家の中で働いてたりするので、
これが結構つらいのです。集中できない。

 

 

個人の問題なのですが、あほちゃうよは音楽をかけながら勉強ができないタイプの人間です。無音がいいんです集中するときは。

 

なのでちょっと辛いんですね。

 

耳栓してその上から耳あてをして帽子をかぶるという3層構造に加えて
自分の部屋でも自然音とか流したり、
それでも足りなかったんでPCで、youtube3タブ開いて現在のスマホと旧スマホの計5台体制で対抗しても負ける、、、

 

というかそもそも無音がいいので、
自分で音を流すのですら疲れるし集中しづらい。

 

 

そんでノイズキャンセリングのイヤホンのこととか調べていたら、
この記事にあたりました。

 

anond.hatelabo.jp

 

 

かなり過去記事です。

 

自分が思ったのは、これ書いた人は書いたとき疲れてたんだろうなと思う、まずはそこ。
元の人となりとか知らないんでそこは自分がなにか言えることではない。
けど疲弊したらばこういう思考になりやすいだろうなと想像はできた。そんなかんじ。


で、次に笑顔まで求めるって、
一体あなたどこまで他人に無償でサービスを求めるのだ?という違和感。

 

カナダはチップのある文化ですが、
笑顔とかそういうのって、、、チップに値します。
要するに国が違ったとすれば、お金を払ってやってもらうことだったりするレベル。

 

でも国は日本なので、
話がそれてしまったので戻ります。

 

で、この人だって、疲れてなかったらば、
そういうことは思わなかったのかもしれないけれど、
いろいろあってしんどいから他人からの善意がほしかったんだろうなと。
やっぱこの人疲れてんだなって思いました。

コメント、全部読んでいないですが、そういったコメントもみかけました。

 

この人の訴えには全然賛同できないし耳栓くらいさせてくれよな、と思うけど、
でもこのお母さんはきっと疲れてたんだろうね。
で、それを誰かに気づいて欲しくてさらに、いたわって欲しかったんだろうね。
赤の他人からでさえも。(やっぱり相当疲れてたんだろうな、、、)

 

あと、あほちゃうよは子育て経験がないのでそう思うのかもしれません。
やや一方的な見方をしてしまっている可能性は否定できません。それも一応いっておきます。

 

 

一応ついでに自分の考えをいうと、間接的には子育てのサポートをしているつもりです。育休や産休で不在になる人のカバーだってそれは当たり前のことだとしてやっているし、街で手伝えそうなことがあったら手伝ったり譲ったりします。
子供が泣いてうるさいと思ったって、自分だってそうやって大きくなってきたわけだから、別に苦情をいったりしませんし、必死で泣き止ませようとしている大人の人にこれ以上の心の負担をかけないように振る舞うにはどうしたらいいかなとか考えながらじっとしています。子育て、とまではいってはいけないかもだけど、間接的サポートくらいになっていたらいいなとは思い、やっております。

 

 

はい。
で、あほちゃうよは子育てしたことないのですが、
その理由の一つが「この状態」に自分がなりたくない、というのがあります。

 

この状態というのは、
要するにこのお母さんの状態です。すみません。

言わずもがなですがパーソナリティやこの人個人を否定したいわけではないです。

 

この状態というのは、

「疲れすぎて他人が善意を与えてくれていないこと自体に違和感を感じる」その心理です。

 

ものすごく短くいうと、
疲れすぎたくない、ってことかもしれません。

 

わがままですかね。。

 

でも本音です。
どう考えても無感情のロボットでない限り避けて通れなさそうです。
すごくこのお母さんと同じ気持ちを抱いてしまいそうです。

想像ができます。

 

しかしその状態は嫌なのです。

 

自分がもし子育てに参加することがあったなら、
自分の子が泣き喚いたら、ものすごくハラハラすると思います。

まずその音そのものだけでもハラハラしま。
人に迷惑をかけているという思いでさらにかなりストレスフルでしょう。


でちょっと考えてみたのが、
もしそうなったら、自分だって耳栓なりノイズキャンセリングして、
まず自分のストレスや疲弊を軽減するようにしよう、ってことです。

 

そこで思いつく新しい不安としては、
親のくせに自分の子が泣いて耳栓してやがる、、、
みたいな他人の目です。

 

人に耳栓ってバレない耳栓とか、なんかそういうのでひっそりと試してみたいです。

 

 

自分のウィークポイントや予め想像が容易い心の負担があるなら、
対策しないのは、変に感じます。
それで他人に無償の善意を求めるよりましかなって。

 

 

 

そんなことを考えていた時に、会田誠さんが訴えられた記事みました。

これまた違和感でした。

そもそもこの原告の人がヌードモデルやPRモデルをしており、アート界に片足をつっこんでいる状態で会田誠さんの作風をしらなかった、といっているので、
もともと情報感度が低め人のようです。

 

あほちゃうよがびっくりしたのは彼女の手段です。
訴えるという手段になったことがびっくりでした。

 

 

これ、授業なので、
女という性別と自分の職業柄、こういうインパクトのある絵を見るのは不快です、とまずその授業でいってみたらどうだったのかなと思いました。(言ったのかもしれないけど、知らない前提で勝手に自分の意見をいっております)

 

そこから議論がうまれて、逆におもしろかったくらいかもしれません。
というかこの授業にわざわざ時間とお金を割いていっている人たちなら、それに対する会田誠さんの回答はほぼまちがいなくおもしろいと思います。すごい価値。

 

まったく同じ画像だけど、被写体が男だったら皆が思う感情はどうかわったのか、とか。男性がレイプされている絵や、勃起している写真を見るとか。そういうのでもおもしろいのかも。すでに授業でそういいうことはされていたかもしれませんね。

 

 

ちなみに、授業内容はこちら。

講座概要

ヌードを通した芸術作品の見方を見につける

ヌード。なによりも身近で、深遠で、儚くて、永遠のもの。時代や地域ごとに取り扱いや表現に差異はあるものの、芸術家にとっては正面から挑むべき大きなテーマです。それは美を捉えたいという欲望、愛の形象化の結果だからでしょうか。ヌードの歴史はまた、批判や論争や取締がつきまといます。今回、英国テート美術館の名品来日を機会にして、ヌードを切り口に 西洋美術史を概観すること、さらに活躍中の芸術家の方々に話を聞こうという講座です。

スケジュール

04/10(火) 19:00〜21:00東京外苑キャンパス 第1回:篠山紀信とNUDE
篠山紀信NUDE 最新作『処女(イノセンス)の館』を中心に すべてのNUDE 作品について語り、すべての質問に対して答えます。
( 篠山紀信×鈴木芳雄) 
〔担当講師: 鈴木 芳雄 、 篠山 紀信 〕
05/08(火) 19:00〜21:00東京外苑キャンパス 第2回:ザ・ヌード~理想的身体イメージの追求~
古代ギリシャ以来、西洋美術の重要な主題のひとつを形成してきた〈理想的な身体〉イメージ。紀元前7世紀に遡る歴史をひもとき、近代から現代に至る流れまでを概観します。
( 藤原えりみ×鈴木芳雄) 
〔担当講師: 鈴木 芳雄 、 藤原 えりみ 〕
05/15(火) 19:00〜21:00東京外苑キャンパス  第3回:ヌードあれこれ話
ヌード、あるいは女性像を画題にした自作を中心に話します。たぶん芸術と対立概念になりがちなポルノの話や、第二次性徴期の話、フェミニズムの話なども避けては通れないでしょうね。
(会田誠×鈴木芳雄) 
〔担当講師: 鈴木 芳雄 、 会田 誠 〕
05/29(火) 19:00〜21:00東京外苑キャンパス 第4回:「ヌード」展を通して裸体表現の変遷をみる
横浜美術館で開催される企画展「ヌード 英国テート・コレクションより」について、コンセプトや出品作品について解説します。
(沼田英子×鈴木芳雄) 
〔担当講師: 鈴木 芳雄 、 沼田 英子 〕
06/12(火) 19:00〜21:00東京外苑キャンパス 第5回:日本・近代・恋愛の起源
日本人にとって近代は大きな転換点だった。そのとき我々が切り捨てたものは何か。ヌード表現とセクシュアリティの関係を歴史を振り返りながら再考します。あと、自作についても少し。
( 鷹野隆大×鈴木芳雄) 
〔担当講師: 鈴木 芳雄 、 鷹野 隆大 〕

藝術学舎 | 京都造形芸術大学がおくる社会人のための公開講座 より。

 

 

メンバーやこの内容を読むだけでも、まあ想像できそうなものですけどね。。。

 

 

あほちゃうよはアート詳しいわけではないですけど、
美しさで勝負するアーティストだけがアーティストではないでしょう、と思っているのと、アートの境目って難しそう、とはわからないなりに思っています。

 

 

講座内容にちゃんと「たぶん芸術と対立概念になりがちなポルノの話や、第二次性徴期の話、フェミニズムの話なども避けては通れないでしょうね。」って書かれているし。。

 

 

 

 

とひとり脳内であーだこーだ考えていたところで、
自分は小学校のころ、ディベートの授業があったことをふと思い出しました。

 

ディベートってただ単に言いたいことをまくし立てるものではなくて、
ある議題に対して、論理を通す力を学ぶ授業です。

 

誰に対してもわからないといけないし、

もちろん個人攻撃はだめだから、感情を排した上ではなしを進める。
感情がファクターの一つになりうる場合には、それをきちんと説明した上で、
要素として登場させる。みたいなそんなことです。

 

そもそも議題に対して賛成か反対かは自分で選べないし。
与えられた立場で論理を構築していくかんじ。

 

それから、カナダにて就活するときや、
英語の授業を受けるときに、おもしろかったのが、

レジュメでも文章でも「型」が決まっていることでした。

 

作文といっても、
argumentative, narrative, discriptive, persuasive,,, and so onってかんじで、
スタイルが色々あって、まずそれを決め、それぞれ書き方がきまっています。

 

 

ディベートや作文の話をもちだして何が言いたいかというと、
要するにアウトプットの方法を教えてくれるのはすごくいいんじゃない?ということ。

アウトプットの方法を習うということは、
自分の言いたいことをまとめる力だけでなく、
自分と言う人間が発信した場合におこる相手の反応も考慮に入れた上で発信内容を構築することも学べるわけです。

つまり、立ち位置を把握したうえでの発信。

 

今の日本の学校教育全然しらないので、
もうすでにディベートとか必修なのかもしれません。そうだといいな。

 
国民の大半が上記のような「アウトプットの基本型」を知っていたら、
それは個人にとっても、すごく助けになりそうだなということを思いました。

 

 

匿名ダイアリーのお母さんも、
まず自分が疲れすぎている前提でこういう考えになっている、という前提を把握することができたかもしれませんし(できている上で書いてたかもしれませんが)、

 

会田誠さんを訴えている原告の人も、
そもそも自分の立ち位置を把握していたら、訴える以外のアウトプットをしたかもしれません。この授業のコンセプト、自分はそれにわざわざ参加している側の人間、講師となっている人たちの作風、なぜこの人たちが講師に選ばれたのか、などです。

 (この人には別の意図がある、とか当たり屋だ、とかも言われているので、その場合は短期的にはある意味成功してそうですが?)

 

そうこうしているうちに隣の工事がはじまりました。
これ書いてる間だけでも静かでよかったかな、、、

 

 

では耳栓などをして、今日も頑張ってプログラミングの練習をしたいと思います。

 

ここまで読んでくださった方がいらっしゃったとしたら、
ありがとうございました。